JACLモントレー半島支部ヘリテージセンター
日系アメリカ人社会および現代社会におけるJACLの使命
JACLヘリテージセンターは2008年に設立されました。 私たちの使命は、モントレー半島の日本文化遺産の収集、維持、保存にあります。 その使命を果たすため、ヘリテージセンター委員会は意思決定機関として機能しています。 1890年代に初めてモントレー半島に移住した日本人移民や、その後の日系アメリカ人に焦点を当てたプログラムや活動を展開しています。
モントレーに来た初期の移民たちは、カリフォルニア州、アメリカ西海岸という慣れない土地で、異なる文化における社会的、政治的、法的な多くの課題に直面しました。 一例として、1906年にサンフランシスコの日本人の子どもたちは、人種的に隔離されたアジア人学校に通うことが義務づけられたことが挙げられます。 この不平等な学校制度は、1908年の高平・ルート協定によって制度上は廃止されましたが、その代償として日本人労働者のアメリカへの移民が制限されることとなりました。カリフォルニア州議会は、1920年末までに、日本人が土地を所有することを禁じる外国人土地法を2度(1908年と1920年)制定しています。 1924年、アメリカ議会は「1924年移民法」を制定し、日本人労働者のアメリカ入国にさらに制限をかけました。 1910年から1940年代にかけて、日系一世と二世が農業や漁業、小売業で成功したことにより、アメリカの労働組合、農業局、反アジア組織の競争に負けたことによる怒りと反日感情が高まっていたのです。
1941年12月8日、フランクリン・ルーズベルト大統領が日本に宣戦布告すると、陸軍省、司法省、米国議会、米国大統領府は、西海岸に住む日系人の人生を変えるほどの影響を与える政策決定を下しました。 特記すべき点として、1942年2月19日に出された大統領令9066号により、軍事制限区域、夜間外出禁止時間、民間人の排除の強制力を持つ西部防衛司令部(Western Defense Command)が組織されました。 さらに1942年3月18日に大統領令9102号が出されると、10の強制収容所を監督する連邦機関である戦時転住局(War Relocation Authority)が設立されました。 1942年2月から9月にかけて、西部4州に住んでいた11万9千人の日本人の血を引く人々が強制的に移動させられ、最終的には10の収容所に監禁されることとなりました。
収容所での生活から1945年以降の社会復帰には、多くの疑問が残ります。 日系人は収容所での生活にどのように耐え、どのように生活を少しでも快適にしていったのか。 戦後、どこに行って、何をするべきか。 かつての隣人や地域社会は、はたして彼らを受け入れるのだろうか。 戦前の家屋や財産などはどうなったのか。 日本人の血を引く者による妨害行為やスパイ行為が法廷で証明されなかったことを踏まえて考えたとき、大統領令9066号は果たして本当に発令されるべき法令だったのだろうか。 日系人への憲法上の権利、たとえばデュー・プロセス・オブ・ローやその他の自由権が侵害されたものではなかったか。 日系二世とその子供たちが教育を受け、社会的、経済的に平等な機会を与えられることはあるだろうか。 収容所での生活は、どのような精神的被害をもたらしたのだろうか。 そして、なぜ多くの一世が、収容所での体験について口を閉ざしたのだろうか。 二世以後の人々の生活は向上しているのだろうか。
こういった歴史的な出来事や問題が存在することを踏まえ、JACLヘリテージセンターは、モントレー半島に住む日系人たちが実際に得た機会や奪われた機会を後世に伝える情報を収集することが重要であると考えています。 日本文化やモントレー半島での日系人の経験についてのJACLによるプログラムやプロジェクトからは、現代の移民問題に対する教訓を学ぶこともできます。 20世紀後半から21世紀初頭にかけて、何百万人もの新しい移民や難民がアメリカの海岸から入国し続けています。 彼らは、アジア、中東、メキシコ、南米などの故郷を離れ、米国で新しい生活を送っています。 日本文化や日系人の経験から得た知識を、新たに移民として加わった人たちにつきまとう人種・民族問題の解決にどのように役立てていけばいいか、考えていく必要があります。