モントレーの日本街 - ジャパンタウン
移民が多く定住しているアメリカ中の街や都市には、重要なサブコミュニティが存在します。 有名なところでは、ボストンではアイルランド系移民が、ミルウォーキーやシカゴではポーランド系移民が、ペンシルベニアとニューイングランドではスウェーデン系移民が、ニューヨーク市とサンフランシスコでは中国系移民が、アリゾナ・テキサス・カリフォルニアではラテン系移民がそれぞれサブコミュニティを作っています。 これらのサブコミュニティには、それぞれの地域社会や各々のコミュニティの文化を確立し、豊かにしているという共通点があります。
一方、仕事などの限られた資源を奪い合う中で、他民族との対立や民族内での対立が発生することもあります。 アメリカに来た新しい移民グループの多くは、産業や経済の発展が進む多民族が集まる大都市に集中して住み、安価な労働力を提供しています。 社会的、経済的地位の向上の過程で不和が生じることは避けられませんが、このような「集団に帰依する」という意識が、民族や地域社会に連帯感を生み、集団に対する信頼を高め、ビジネスチャンスを生み出したことも事実です。
これは、20世紀前半のモントレー半島の日系人にも当てはまります。 モントレーの 日本街(ジャパンタウン)は1910年代と1920年代にルーツを築き、すぐにビジネスと社会活動の中心地となりました。 この日本街は、西をTyler Streetに、東をCamino El Esteroに囲まれ、北はFranklinと公差し、南側はWebster StreetおよびPearl Streetと公差する小さなコミュニティでした。
この11~12ブロックからなるコミュニティには多くの日系人家族が住んでおり、日本企業が活躍しました。地元住民や観光客のニーズに応えるホテルやレストランなど、街には娯楽施設が点在しており、日曜にミサが行われる日本基督教団教会(1941年にEl Estero Presbyterianと改称)もありました。さまざまなプログラムやサービス、コミュニティイベントを開催するJapanese Association Building(日本人会ビル、後にJACLホールと改称)が、日系家族の絆を深める中心地として機能していました。
日本街は、日系人コミュニティのほぼすべてのニーズを満たす活気のある街でした。 小売業は20数店舗ありました。 1906年には、Washington StreetのFranklinとDel Monte通りの間に、一般的な船舶用品を扱うR. Ono & CompanyがRokumatsu Ono氏により設立されました。 二件目の船舶・釣り用具専門店であるOwashi Ship Chandlery & Groceryは、FranklinとFigueroa通りの交わる角に作られました。 1919年には、Torakichi Tabata氏とTonosuke Esaki氏がFranklin通り(後に438 Washington Streetに移転)に食料品やホリデーシーズン用の商品を扱うSunrise Brothersをオープンしました。
漁業が盛んになると、カリフォルニアの他の多くの港から漁師が集まってきました。 漁師たちの食事や宿泊のニーズに応えるため、Higashi家が始めたのが Higashi Hotel(ヒガシ・ホテル)です。Higashi Hotelは1920年代初頭にAdams StreetにあるJACLホールの南隣に移転しました。 Washington StreetにはMarumoto家が運営するもう一つの宿泊施設Kumamoto Yaがありました。
当時、日系人家族にとって外食は特別なイベントであり、リラックスして食事をしながら友人との会話を楽しむ時間と考えられていました。 Washington StreetにあったCanton Restaurant、Franklin通りのAlvarado通りとTylerの間にあったThe Wakaba Japanese Restaurant & Bar、さらにAdams StreetのHigashi Hotelの2階という便利な場所にあったHigashi家が経営するAzuma Teiなど、おいしい料理で客をもてなすレストランがありました。
また、地域住民の日常的なニーズに応えるために開業したビジネスもあります。 Tyler StreetにあったSuyama Shoe Repairは、靴の修理専門店として開業し、お菓子やピーナッツ、ポップコーン、タバコなどの商品を販売するまでに規模を大きくしていきました。 1920年には、Kodama家が日本街初の日系人経営によるクリーニング店Owl Cleanersを開業しました。 1945年以前のクリーニング店としてほかには、Del Monte通りとWashington通りがぶつかる角にあるIzumi’s Laundry、Franklin通りとAdams通りの交差点にあるYokohama Laundryなどがありました。
Washington通りとDel Monte通りの角近くにあるTakamoto Barber Shop 、Franklin通りのFutamase Barber & Bath Houseなど、日系人経営の床屋もありました。 家具や贈り物はAlvarado通りにあるYamate氏の経営するOriental Gift Shopで揃えることができました。この向かいにはMiura氏の経営するJapanese Art & Dry Goodsというお店がありました。
さらに日本街には、夜の娯楽施設もありました。 Washington通りとFranklin通りの交差点には2つの賭博場があり、ギャンブル好きな客を集めました。 多くの家庭が食料品を買い込んで自宅で調理する一方で、先に述べたような地元のレストランで家族や友人と外食を楽しむ人もいました。
この中でも特に地域社会の活動の中止となっていたのが、424 Adamsの日本人会ホール(JACLホール)で、昼も夜も様々なイベントが開催されていました。 ここでは、現地の著名人や団体が集まり、日本人コミュニティの人々が直面しているあらゆる問題を話し合い、評価し、社会的・経済的なさまざまな問題に対処するための戦略や解決策が計画されました。 このホールは、 地元住民が歌舞伎や物語を披露するshibai(芝居)に使われたり、 shigin(詩吟)や ikebana(生け花)、 fujinkai(婦人会)などの メンバーが集まるグループミーティングに使われたり、さらにNihon gakko(日本学校)の放課後や週末に行われる児童生徒向けの日本語・日本文化教室として使用されるなど、さまざまなイベントに対応できる会議・公演スペースとして使用されていました。 ホールで最も人気のあったプログラムの一つに、侍たちが剣で戦うchanbara(チャンバラ)映画の上映会がありました。
モントレーの日本街は、Adams通りを中心とした11ブロックで構成されており、初期移民の日系人家族が住んでいました。 Adams通りには、Takigawa、Oda、Narazaki、Manakaという名前が並んでいます。 Cortes通りとAnthony通りの交差点の角にはそれぞれ、Okumura家(北西)、Sato家(北東)、Oyama家(南東)、Kato家(南西)が住んでいました。
モントレーの日本街のはじまりが国内外の経済状況であったのと同様に、日本街の分散と消滅も1945年以降の経済状況の変化によるものでした。 1900年から1950年にかけてのアワビ、マグロ、サーモン、特にイワシを中心とした海洋産業は、漁師と缶詰工場に好景気をもたらしました。 その結果、モントレー半島には日本人をはじめとする多くの移民が流入し、日本街では先に説明したようなさまざまなビジネスが生み出されました。
第二次世界大戦後、多くの日系人家族がモントレー半島に戻り、元の生活や職業を取り戻しました。 しかし自分たちではどうすることもできない、さらに見通しの悪い経済状況の中で、モントレーの日本街の基盤は崩れ始めていったのです。 まず、歴史書などにも書かれているように、イワシの急速な衰退・消滅により、缶詰工場やそれに付随する小売業の多くが経済的なダメージを受けました。 さらに、多国籍企業の進出や規模の拡大により、日系家族が経営する小さな商店がそれらの企業に価格競争を挑むことが事実上不可能となってしまいました。 日本街の商店は、時間が経つにつれ、このような経済的な現実を目の当たりにすることになったのです。 家族経営の小さな農家や商店、船舶関係の専門店など、日本街の物件は次々と金融機関や大型店に売却されていきました。
この20世紀末から21世紀初頭にかけての経済の影響は、残念ながらもう取り戻すことができないでしょう。 モントレーの日本街にあった日本企業は、ほとんどすべて取り壊され、建て替えられています。 1926年に建てられ、1942年に改称されたJACLホールは、2010年現在も日系人の象徴的な存在となっています。
モントレーの日本街にある424 Adamsに建つJACLホールは、 「モントレー半島に残る日本文化や日系人の貢献してきた歴史を残す」という、現在私たちが直面している最も重要な課題の象徴的存在ともいえます。 市や郡、州の歴史的に重要な遺跡の保存を支援する政策では、 JACLホールは、保存に値する歴史的建造物に指定されています。
日系人やJACL、さらに協力する団体には、日本街をそのままの形で維持し、モントレー半島の日本人の歴史や残されたものを保存するためにできる限りのことをするという使命があります。 この使命を全うするため、JACLモントレー半島支部では現在、JACLホールに文化遺産センターを設立することを目的とした大規模なプロジェクトに取り組んでいます。 モントレーの日本街をはじめ、モントレー半島における日本人の歴史を記録する遺物や写真、展示物、論文などを保管し、学生や地域住民に公開することが目標です。
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