JAPANESE AMERICAN CITIZEN LEAGUE
OF MONTEREY PENINSULA

日本人初のモントレー半島への移住者

中濱 万次郎(ジョン万次郎)

どの国からも、アメリカに最初に足を踏み入れる移民が必ず存在します。 日本からアメリカに渡った最初の移民は、中濱 万次郎(ジョン万次郎)であったという記録が残っています。 四国に生まれた万次郎は、ホイットフィールド船長率いるアメリカの捕鯨船に乗せられ、1841年にマサチューセッツ州フェアヘブンに到着しました。

日本からカリフォルニア州への最初の移民の中には、1869年にエルドラド郡ゴールドヒルに入植した『若松コロニー(Wakamatsu Tea & Silk Colony)』と呼ばれるグループもありました。 1870年のアメリカ国勢調査によると、ゴールドヒル居留地には当時22人の日本人が住んでいたとされています。

それでは、日本からモントレー半島に初めて移民してきたのは誰だったのでしょうか。 この地域をただ通過しただけの人はそれまでにもいたかもしれませんが、記録に残る最初の日本人の移民としては、地元の歴史家のほとんどが、1890年代初頭にモントレー半島にやってきたオトサブロウ・ノダ(Otosaburo Noda)という人物を挙げています。

カストロビルとワトソンビルを拠点とする労働派遣業者であったノダ氏は、森林地帯の整備に日本人労働者を派遣していました。 1901年、ノダ氏はキャナリーロウ地区にサーモンを獲るための日本人漁村を設立しました。 また、モントレー半島に移住した農業に携わる日系一世をサポートしたことや、モントレーからポイント・ロボスまでの海岸線でアワビが大量にとれることを発見したことも記録に残っています。 ノダ氏は、パシフィック・グローブに一時的に滞在していたものの、モントレー半島に定住することはありませんでした。

モントレー半島に初めて定住した日本人は、ゲンノスケ・コダニ(Gennosuke Kodani)という人物であったとされています。 コダニ氏は、1867年に千葉県で生まれ、慶応義塾大学で生物学を学びました。 ノダ氏の働きかけでモントレー海岸のアワビ漁に興味を持った日本の農水省は、 ノダ氏の報告書を確認するため、慶應義塾大学の生物学部から誰かを現地に派遣しようと考えていました。そこで選ばれたのがコダニ氏でした。

コダニ氏は横浜をドーリック号で出発し、1897年9月14日にサンフランシスコで下船、1897年10月初旬にモントレー半島に到着しました。 半島の海岸線を探検し豊富なアワビを見たコダニ氏は、すぐにビジネスとしてのアワビ漁を開始しました。 コダニ氏は1898年、ホエラーズ・コーブに約8万坪の土地を所有していたアレクサンダー・M・アラン氏と提携し、ポイント・ロボス・キャニング・カンパニーという缶詰食品を製造する会社を設立しました。

コダニ氏の家族写真。右から二番目がゲンノスケ・コダニ氏

1902年12月に日本で結婚したゲンノスケ・コダニとフク(旧姓:タシロ)の二人は、9人の子供を育てました。 残念ながら次男が仕事上の悲劇に見舞われてしまいましたが、他の子供たちは、地元の日本人コミュニティでさまざまな職業に就き、尊敬と注目を集めました。

1902年12月に日本で結婚したゲンノスケ・コダニとフク(旧姓:タシロ)の二人は、9人の子供を育てました。 残念ながら次男が仕事上の悲劇に見舞われてしまいましたが、他の子供たちは、地元の日本人コミュニティでさまざまな職業に就き、尊敬と注目を集めました。

1868年の明治維新を契機に、日本人の海外移住が盛んに行われるようになりました。 まず、薩長同盟が徳川幕府を討伐し、これにより徳川政府が掲げていた日本人の出国を死守するという攘夷政策が廃止されました。 そして、明治政府が産業発展戦略を採用したことで、主に西洋の科学技術を学ぶため日本人は欧米に渡りました。 さらに日本人の海外移住のきっかけとなる明治政府の政策による影響や1870年以降の出来事としては、高い税率や旧士族の土地収用、皆兵制、苦しい貧困、国内の不況などにより、日本人が海外でのより良い生活を夢見るようになったということも挙げられます。

いつの時代も、ある国で困難に直面した人々は、より良い機会や夢を求めて別の国へ移住してきました。 明治時代の最初の30年間(1870年~1899年)、多くの日本人はアメリカの道路は金で舗装されているという幻想を抱いていました。 多くの人々が、この金を見つけて採掘し、日本に持ち帰って農地や事業に使用する不動産に投資して良い暮らしをするという夢を抱いていました。

また、日本人のアメリカ移住を後押しする要因として、1882年の中国人排斥法に代表されるアメリカ国内での反中感情もありました。 中国からの移民は、西部の金鉱山や鉱業所で働き、サービス業を提供し、物資輸送のための鉄道を建設するなど、アメリカの産業発展に貢献してきました。 しかし1882年、この安価な労働力の供給源である中国からの移民が議会法によって禁止されました。ここに、日本人はアメリカの労働力不足を補うタイミングを見出したのです。 そのため、日本や、当時サトウキビ産業で働く日本人移住者の中継地であったハワイからの移民の数が増えていったのです。

明治政府は経済、商業貿易の拡大を目指し産業の近代化を推進するため、各都道府県特有の技術を特定し海外に売り込むという戦略を取りました。 そのため、モントレー半島に移住した日系一世の多くが、特定の都道府県出身の人たちでした。 千葉県や若松県からの移民は漁業の技術を、広島県、山口県、熊本県からの移民は農業の技術を持ち込みました。

先駆者となったのは、千葉出身のオトサブロウ・ノダ氏とゲンノスケ・コダニ氏でした。 他の日系一世たちも、日本で培った技術をモントレー半島に持ち込みました。 出身都道府県での仕事の経験や技術を活かしてアメリカに定住した移民たちには、千葉県出身のケンジ・ワタナベ氏、(アワビ漁)、広島県出身のコウイチ・タナカ氏(農業)、熊本県出身のクマヒコ・ミヤモト氏(農業)、和歌山県出身のウノスケ・ヒガシ氏(漁業)、和歌山県出身のトメキチ・マナカ氏(漁業)がいます。 その後、モントレーの日本人人口の増加に伴い、一世の移民たちは小売業やサービス業を始め、漁業や農業を主なカリキュラムとする日本学校が設立されました。

新しい国に移住する人々は当然、祖国で培ったスキルを持って新しい国で夢を追求しようとします。 モントレー半島に移住した日系一世たちも、故郷から持ち込んだスキルを使って生活を開始しました。 明治の日本における経済的苦難から逃れ、アメリカで新たなチャンスを切り拓こうとする日系移民は、新しく『故郷』と呼べる土地で新しい人生をスタートさせたのです。

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