JACLモントレー半島支部
JACLについて
1882年*にアメリカが中国人排斥法を施行した後、西海岸への日本人の移住が大量に増加しました。 その中にOtosaburo Nodaという人物がいました。Noda氏は1895年にモントレーの北約25マイルに位置するワトソンビルに移住しました。 ある日、モントレーでパシフィック・インプルーブメント・カンパニー(ペブルビーチ社の前身)の木こりとして働いていたNoda氏は、モントレー湾にたくさんの種類の魚やアカアワビがいることに気づきました。 この膨大な資源は、まったく手つかずの状態にありました。 Noda氏はすぐに木こりの職を辞めモントレーに移り住み、和歌山県出身の漁師たちを集め小さな漁村を立ち上げました。 Noda氏は、モントレーに魅せられていました。その情熱は、日本の農水省にこの海の豊かさについて手紙を出したほどです。 手紙を出すとすぐに千葉県から来たアワビ漁師が移り住み、モントレー湾の漁業はその後20年間、日本人が独占することになりました。 20世紀に入ると、広島県から少人数の農民がやってきて、 カーメルのすぐ南側に農場を作りました。 1930年代半ばには、日本人所有の魚市場やアワビ加工施設がモントレー埠頭の事業の8割を占めるようになりました。
日系人はアワビやサケ、イワシを獲っていました。 また、イチゴ、ジャガイモ、トウモロコシ、アーティチョークなどを作る農業を営み、モントレー半島一帯で小さな企業を展開していきました。 しかし、もっとも盛んだったのはサケ漁をはじめとする漁業です。 1909年8月のサケ漁シーズンが終わったころの『Monterey Daily Cypress(モントレー・デイリー・サイプレス)』紙によると、当時モントレー湾内には185隻の漁船があり、その中145隻が日系人所有の漁船だったそうです。 モントレーといえば、イワシの産地として有名です。 みなさんもご存じのように、イワシ漁を行ったのはシチリアの漁師です。 しかし、これは物語のほんの一部に過ぎません。 20世紀初頭、サクラメント川のサケ漁はあまりうまくいっていませんでした。 しかし、漁具の進歩に加え、日本から漁師の先駆者たちがモントレー湾に移住したことで、モントレーでは大規模なサケの水揚げが始まりました。 そんな噂を聞きつけ、サクラメント川のサーモン加工業者たちはF.E. Booth氏を派遣し、調査を始めしました。 モントレーで発見したものに感服したBooth氏は、埠頭のふもとに小さな缶詰工場を開きました。 Booth氏にとって不運だったのは、日本の漁師たちがすでにサンフランシスコの魚市場と契約を結んでいたことです。 しかしBooth氏は粘りに粘り、最終的にはサーモンを買い取る契約を取り付けました。 1900年になると、アメリカでは日本人に仕事を奪われることを恐れる白人の労働者を中心に、多くの反日感情が生まれました。 1905年、Booth氏は「もう日本人漁師は雇わない」と宣言しました。サーモン漁は春にしか行われないため、秋から冬にかけてはモントレーでイワシ漁を展開することを考えていたのです。 そして、毎年春になると、日本の漁師からサケを買い続けました。
また、モントレーには年間を通して多くの日本人家族が住んでいたため、ほかのアメリカの街のように、漁具や雑貨を扱う商店、食品市場、ホテル、レストラン、理髪店、靴屋、クリーニング屋など、あらゆる種類のビジネスの必要性が生まれました。ほかの街と違うのは、これらのビジネスを経営していたのが一世や二世の日系移民たちだったということです。 漁業や農業、ラジオの修理などといった小さなビジネスが集まって、ひとつのコミュニティが形成されました。 モントレーには、Alvarado通り、Adams通り、Pearl通りに囲まれた日本街がありました。 モントレー在住の日系人はそれを「コロニー」と呼んでいました。
JACL(日系アメリカ人市民同盟)のモントレー半島支部は、JACLが結成されてからわずか2年後の1932年1月25日、18人のメンバーによって設立されました。 この組織は、その親組織と同様、差別的な法律や人種的偏見と闘い、一世たちが外国人登録や不動産契約などといったアメリカの官僚制度をうまく利用できるようサポートするために設立されたものです。
1930年代を通じて、同支部はこの成長を続けたコミュニティの中で活動を続けました。 1937年、モントレー支部のメンバーはモントレー市が毎年開催する独立記念日のパレードに参加し、巨大なアメリカ国旗をつくって担ぎました。 その大きさから、山車に乗れるのが数人であったのに対し、国旗を運ぶのには60人を要したと言われています。 また、地域社会への同化を目指し、スポーツの大会を開催しました。 JACLがスポンサーとして支援したモントレー・ミナトズの優秀なアスリートたちは、いくつかのスポーツで名声と記録を作り上げました。 1934年から第二次世界大戦が始まるまで、モントレー・ミナトズは、中央カリフォルニア海岸郡体育協会(Central California Coast Counties Athletic Association、4CAA)の頂点に君臨していました。 1938年にサンフランシスコのKezar Stadiumで開催されたYMCAオリンピックでは、わずか3人のミナトズの陸上選手が11種目中9種目を制し、大会を制覇したこともあります。
今日、JACLモントレー支部は寛容性と多様性のある社会を求めて戦い、メンバーの文化遺産を保護し、新しくやってきた移民が社会に同化するのを支援し続けています。
モントレーはいつだって特別な場所です。 第二次世界大戦後、モントレー半島の住民たちは地元の新聞Monterey Peninsula Herald に一面広告を掲載して、強制収容された日系アメリカ人の帰還を歓迎しました。
今日、モントレーの日系人コミュニティは昔と変わらず強く、地域社会で非常に活発に活動しています。 現在のモントレー半島を形成する上で欠かせない存在なのです。